メニュー ネットショップのコツ |
湯島天神 [戻る]東大から歩いて数分、東京最高の学問の神様! 【住所】 東京都文京区湯島三丁目30番1号 【主祭神】天之手力雄命 菅原道真 【創建】 雄略天皇2年(485年) 【例大祭】5月25日 【摂末社】戸隠神社 笹塚稲荷神社 【社務所】あり 【ご神職】いる 【授与品】御守、木札、絵馬、おみくじ、鉛筆 【駐車場】あり 【HP】 https://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm 【御由緒】 湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。 明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。 明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。 元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。 (ホームページより) 地下鉄千代田線湯島駅から春日通りを西に行くと直ぐに切通坂があり、その坂に面した段丘上にあります。湯島天神入口交差点には、コンクリート造の大鳥居が待ち受けています。上写真の石囲いの中が時間貸し駐車場で、ここからだと湯島天神まで目と鼻の先です。 参道の両側に多くの出店が立ち並び、目移りしそうです。わたあめ、ベビーカステラ、大判焼き、するめ焼き、玉こんにゃく、金太郎飴など、屋台料理のお店が一杯でした。お陰で人の流れがゆっくりで、なかなか拝殿へ近づけません。 ようやく拝殿の近くまで来ました。まずは神様へのお祈りから。学問の神様であることと東京大学に近いことがあって、普段は受験生の参拝が多いです。この日は梅まつり開催中だったので、花見客の方が多い印象です。 天満宮と梅は切っても切れない関係があります。天満宮の御祭神である菅原道真公の家紋は梅鉢紋で、自身も梅の木をこよなく愛していたそうです。政争に敗れ左遷された際に、京都の屋敷にあったはずの梅の木が太宰府まで道真公を追って飛んできたという逸話もあり、天満宮には欠かせない樹木となりました。 本殿裏には摂末社があります。一つは戸隠神社です。長野県の北信地区にある戸隠山の麓にある神社の分祠です。戸隠と言えば、そばや忍者、天狗で有名ですね。御祭神は天之手力雄命で、天照大神の籠った天岩戸を自慢の怪力でこじ開けた神様です。しかも、湯島天神では菅原道真公が合祀される前から天之手力雄命を祭っていたとのことで、本来の主祭神なのだそうです。 努力の文字に目が行くと思いますが、これは元読売ジャイアンツのバッターだった王貞治さんが通算ホームラン数756本の世界記録を樹立したのを記念して、王さんの崇敬する湯島天神に有志が立てたものです。その際に王さんの座右の銘である努力の字を彫ったとのこと。王さん自身もこの時に白梅の木を奉納したそうで、湯島天神に彩を添えています。 次は講談高座発祥の地の碑です。 男坂の石段を登り切ったところにあります。 講談自体は以前からあったそうなのですが、江戸中期までは観客と同じ床に座って話していたそうです。しかし、江戸後期の講談師の伊東燕晋が高座を初めて設けたそうで、その地が湯島天神なのだそうです。それを記念して近年に石碑が立てられました。 もう一つ、女坂の碑もあります。 ホームページにもWikipediaにも説明はありませんが、女坂の入口にあります。演歌のおんな坂にちなんで立てられたものですが、筆跡が演歌の大御所でサブちゃんこと、北島三郎さんです。 そんな女坂の脇にも梅林があり、白い花を咲かせていました。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ 上に戻る |