メニュー ネットショップのコツ |
根津神社 [戻る]東京で一番人気の千本鳥居 【住所】 東京都文京区根津一丁目28番9号 【主祭神】須佐之男命(すさのおのみこと) 大山咋神(おおやまくいのかみ) 誉田別命(ほんだわけのみこと) 【創建】 1900年近く前? 【例大祭】9月21日 【末社】 乙女稲荷神社 駒込稲荷神社 【社務所】あり 【ご神職】いる 【授与品】各種御札、各種御守、御鈴、絵馬、神棚、破魔矢、御朱印、御朱印帳、暦 【駐車場】あり 【HP】 https://nedujinja.or.jp/ 【御由緒】 今から千九百年余の昔日本武尊が東夷征定の途次、武神須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています。 神仏習合の時代には、根津権現社と呼ばれ、御祭神素盞烏尊(本地:十一面観音菩薩)、相殿に山王大権現(本地:薬師如来)、八幡大菩薩(本地:阿弥陀如来)を祀り、根津三社大権現と呼ばれていました。 現在地は江戸時代、甲府宰相徳川綱重(三代将軍家光の三男、六代将軍家宣の父)の山手屋敷であり、のちに六代将軍となる綱豊(家宣)の生誕の地でありました。 五代将軍徳川綱吉が兄綱重の子綱豊(家宣)を養嗣子に定めると、家宣の産土神である根津権現社にその屋敷地を献納、現在の社殿を奉建し、宝永3年(1706)千駄木の旧社地より遷宮、永代社領500石を寄せています。 明治時代には、神仏分離令によって社名を根津権現社から根津神社に改称し、明治天皇御東幸にあたっては准勅祭社と定められ、御勅使が国家安泰の御祈願をされています。 昭和20年戦禍により社殿の一部に損害を受け、復旧工事をし昭和34年に竣工しました。引き続き、唐門、透塀、楼門の修繕も行い、昭和37年に完成、宝永の昔さながらの威容が復活しました。 HPより この界隈には多くの明治の文豪が好んで居住したこともあり、根津神社へ参拝する方も多かったようです。その中でも森鴎外はよく訪れていたようで、根津権現という古い名称で自著にも記していました。 その縁もあり、現在は境内の一画に森鴎外の旧宅を移築するプロジェクトが進められております。 石畳の参道を進むと、まず池と橋が見えてきます。神社に架かる橋は、世俗と神域を分ける境界を意味しているため非常に重要な場所であり、尚且つ中央は神様がお通りになるとのことで、人は左側を歩くと良いとされています。 ちなみに、この池には運気上昇のシンボルである鯉と亀(外来種だった)が生活しています。 その先にあるのが神門です。 根津神社のものは江戸市中で唯一の現存する神門だそうで、重要文化財に指定されています。本物の漆塗りの建物で、中に安置されている陏神の内、右側の像は時代劇の主人公として有名な徳川御三家水戸藩藩主の徳川光圀公(水戸黄門)だと言われているそうです。 一見すると他の社殿よりも地味でパッとしない印象ですが、舞台下の部分にちょっと注目したいですね。縁側を支える梁の部分が腕木になっており、しかも三段なっているのが特徴的です。通常腕木は屋根を支える部材なので、こんな近くでは見れません。さらに、三段重ねにできるのは一定の社格を与えられた神社だけなので、さすが準勅祭社の格を持つ神社だなと感心します。 朱塗りの柱と梁に、金の装飾。屋根は銅板葺きで唐破風と千鳥破風のセットという、かなり豪勢な造りとなっています。宝永3年(1706)に犬公方として有名な五代将軍徳川綱吉によって奉納されたもので、当時流行だった権現造によって建てられました。 唐破風の奥には根津神社の扁額。その両サイドの柱に掘られている像は、正面を向いているのが魔除けの獅子、向かい合っているのは鼻が長いので象に見えますが実は悪夢を食べてくれる獏です。その上の壁面には、鳳凰が描かれています。 ちなみに、上の写真の右隅に写っている建物が授与所で、各種御守や御札の販売、御朱印の受付などを行っています。 白い石鳥居が目印で、その先に赤い稲荷鳥居が何基も続いています。外国人観光客にも知られ、人気の千本鳥居です。ここは東京都内では数少ない千本鳥居が見られる神社で、SNS映えする近場のスポットとして注目されています。 では、奥へと進みます。 と思いながら、まだまだ鳥居のトンネルは続きます。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ 上に戻る |