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庄城稲荷大明神 [戻る]かつて城内に祭られ、戊辰戦争を見つめていた甲府城の鎮守 【住所】 甲府市中央2丁目4 【主祭神】稲荷大明神こと倉稲魂命 【創建】 1200年頃 【例大祭】? 【末社】 なし 【社務所】なし 【ご神職】不在 【授与品】なし 【駐車場】舞鶴公園駐車場を利用 【HP】 【御由緒】 庄城稲荷大明神は、約八百年の昔甲斐源氏の祖一条忠頼が、一条の庄小山の地(現:舞鶴城)に館を築いて守護神として祀った社である。忠頼亡きあと、武田時代を経て、上、下の信仰を得て徳川時代となり徳川新城をこの地と定め、加藤、浅野両氏により甲府城が完成された。よって庄城神社の一部を稲荷曲輪と命名された。明治維新後も庶民の信仰の念厚くその先達として、地元桜盛会(現:桜北自治会)が明治以来今日迄崇敬してきたものである。不幸にも立派な木造の社殿も戦災により消失し、転々として、現在地に遷座したものである。このような経過からみて、一日も早く城内稲荷曲輪跡に移り、甲府城の守護神として崇敬したいものである。 当社説明板より 今回ご紹介するのは知る人ぞ知る神社、庄城稲荷神社です。甲府城跡である舞鶴城公園のお堀端にひっそりとある小さな神社です。記事的には参拝後の城跡見物のほうがボリューム多いですが、どうかお付き合いください。 ご由緒にもあるようにこちらの神社は、元々城内にあったとのことで、屋敷神の役割を果たしていたものと思われます。城内ということは武運長久を願って、勝運の神様である八幡神社や諏訪神社を祭りそうなものですが、意外に稲荷神社なんですよね。これは江戸の大名屋敷でもこの傾向があって、笠間稲荷東京分祀、五十稲荷神社、日本橋茶ノ木神社、延寿稲荷神社などがあり、なぜか武家でも屋敷地に稲荷社を祭るケースがあったようです。 明治時代になって廃城令が出されると甲府城は城主を失い、神社はあたりを転々とするようになったとか。太平洋戦争で社殿を焼失すると、当地に今の社殿が再建されたとのこと。そのせいか、なんとなく仮住まい感があるようなないような。 狛犬や石灯籠、鳥居など燃えにくい石でできたものがあるものの、創建当時のものかどうかはよくわかりません。形がハッキリしているので、割と新しいのかもしれません。せっかく甲府城を復元しているので、この神社も本来の場所に戻して再建すれば、もっと様になるのにと思います。 上の写真の橋を渡って中へ入ります。ちなみにこの橋は和風の木橋に見え、当時の姿を偲ぶように掛けられているように思われますが、実は公園へ作り変える際に掛けられたもので、本来ここには橋も門もありませんでした。完全なるダミーです。そんな橋から左を向くと、往時のお堀の姿を見ることができます。 このお堀と石垣は当時のままです。塀に関しては、復元されたものです。その先に見える茶色の建物が、山梨県庁で、現在の甲斐の国の政治の中心地です。かつてはこの県庁の立っている部分も甲府城の一部でした。つまりこのアングルには新旧の政治の中枢が写っており、江戸時代から政治の場所が変わっていないことがわかります。 それでは中へ入ります。橋を渡ってすぐのところにある広場が、かつての鍛冶曲輪です。この鍛冶曲輪には素敵なものがあります。それはこちらです。 枯山水の日本庭園です。この時期は丁度ツツジが満開で、綺麗に咲いていました。敷き詰められた砂利の部分を水に例えて、山水画の世界を再現しています。ただし、大名庭園が実際にここにこのような形で存在していたかどうかは不明です。 名前はその名もズバリの鍛冶曲輪門です。残念ながら建物は当時のものではなく、復元です。ただし、木造本瓦使用の完全復元なので、築城時の姿と全く同じです。ここを多くのお侍さんが出入りしていたんですね。なかなか感慨深いものがあります。 鍛冶曲輪はこんなものなので、さらに奥へ行きたいと思います。下の写真の階段を登っていくのですが、もちろんかつてここはコンクリート造の階段ではなく、土でできた坂道だったようです。右手前の石垣も後年作られたようで、ここを突っ切るように道があったものと考えられています。 階段を上り坂下門跡を抜けると見えてくるのが、武徳殿です。現在は柔道場として使われているそうで、この辺りの一郭が二の丸にあたるそうです。武徳殿は日本風で一見古そうに見えますが、城郭として使われていた頃に建てられたものではなく、近代以降の建築です。 さらに、当時の二の丸の南半分はもっと県道側へ張り出していて、今よりも広かったそうです。古地図によると、その張り出した角に三重櫓が建てられていたそうで、西側への防衛拠点であったことがうかがえます。しかし、これ以外に建物らしき記載がなく、実際に二の丸にどんな建物があったのかは不明です。 二の丸に食い込むような位置に内松陰門が建っているのがわかります。そうすることで一度に侵入してくる敵兵を減らそうという作戦です。その左右に曲輪が張り出していて、ただでさえ石段で歩きずらいところを、挟み撃ちにするように上から攻撃できる格好です。その手前の広場も城壁にクランクをつけて2方向から攻撃できるようにするなど、内松陰門だけである程度敵兵を漸減できるようにしているのがわかります。 では、内松陰門を尻目に、さらに裏側へ進みます。 ちなみに内松陰門を出ずに上の写真の石段を登り切るちょっと手前に、かつて銅門(あかがねもん)があったそうです。名前からして、赤銅で装飾された門があったのでしょう。復元はまだされていないので、今回はパスします。 北側の曲輪へやってきました。ここは旧稲荷曲輪です。冒頭で紹介した庄城稲荷神社があったとされる場所です。ここにきてまず目についたのが、井戸です。 こちらも復元されています。中を覗いてみましたが、玉砂利が丸見えだったので水をたたえておらず、格好だけのようです。 ちなみに、右端に写っている建物はお手洗いです。 現代による再建ではありますが、やはり格好いいです。石垣や堀、塀もいいのですが、櫓があると全然見栄えが違います。白漆喰で塗り固められた建物は、日本のお城独特の美しさを放っていると思います。外側から見るともっとお城らしい姿で、素晴らしいです。それがこちら。 曇っているのが玉に傷ですが、やはりこの姿は格好いい。櫓の中央に石落としを設けるために、千鳥破風と出窓を加えているのが特徴です。これはお城ならではの構造で、防御と美しさを兼ね備えた建築美だと思います。 ちなみに、稲荷櫓から本丸を見るとこんな感じです。 観光ガイドブックとかで見られる甲府城の写真と同じアングルです。一番高い石垣が天守台と言われている場所です。その横にある塔は、後年建てられた顕彰碑の石碑です。 稲荷曲輪の辺りにはベンチや東屋があるため、晴れた日にお弁当を持ってくれば、お城を見たり山々を見たりしながら食べられるので最高です。 まず1階中央の部屋に入って目につくのが、甲府城を支配下に置いた歴代戦国大名家の家紋の入った幟です。右から、武田氏(一条氏)、徳川氏、浅野氏、豊臣氏です。 中は資料館になっていて、発掘調査で出土したものや年表などが展示されています。その中には災害、戦災除けのご利益があるとされる、お城につきもののしゃちほこも。 あとは軒瓦や軒丸瓦も出てきたようです。通常軒丸瓦には城主の家紋を入れるのですが、三つ巴紋なのを見ると、甲府城では汎用のデザインを採用したようです。近代城郭になると転封に伴って引っ越すケースが増えたので、城主交代ありきで築城されたのでしょうか? 本丸を回り込む通路を通って、南側へ来ました。お堀からだと先ほど登った階段と坂下門跡を通った後、武徳殿のほうへ行かず右の中ノ門跡を通るとたどり着きます。ここは当時天守曲輪(本丸ではない)と呼ばれていたそうです。そこに大きくて急な石段があるのですが、見上げると・・・ 立派な門が鎮座しています。これは鉄門です。スクランブル交差点の辺りからでも見える、象徴的な建物の一つです。先ほど紹介した内松陰門と同様、黒鉄で装飾されています。しかも、鉄門は櫓門の形式をとっており、門の上にも兵を忍ばせて階下の敵を攻撃できるようにしています。それもあって非常に威圧的で、堅固な印象があります。 門をくぐり、裏に回るとこんな感じです。 意外にも、背後には黒鉄の装飾はないです。そのことから装飾が、外からの見栄えを意識したものだとわかります。とはいえ、櫓門だけに躯体が大きいため、骨組みは複雑で立派なものです。小さな通用口も用意されていて、普段下級武士は腰をかがめてこちらの通用口を通っていたものと思います。 こちらの鉄門も中に入ることができます。門の脇に上に登る石段があり、犬走へ上がったところに入口があります。それがこちらです。 手前の生け垣は恐らく公園化に伴って植えられたもので、当時はなかったと思います。戦の際に邪魔になるし、樹木は火災の原因になりかねないので。それ以外は、史実に基づいて再現されています。稲荷櫓同様、本瓦に白漆喰で作られ、近世城郭の姿を忠実に復元しています。 では、中に入ります。 いや~、高い!城攻めの際にここをよじ登るのは、とてもしんどいです。というか、高所恐怖症の人にはきついと思われます。元々小高い山の上に築かれたのもあり高低差が大きく、嫌が応にも石垣を高くせざるを得なかったんでしょう。それが結果的に守りの堅さにつながっていると思います。ここから弓や鉄砲で射かけられたらたまったものではないし。 ではいよいよ、天守台へと向かいます。それがこちらです。 実は結構いびつな天守台です。通常天守台と言えば、上から見ると正方形か長方形の形をしているのが一般的(大阪城、名古屋城、江戸城など)ですが、甲府城は五角形の形になっています。安土城や岡山城の例もあるので間違いとは言い切れないですが、そうなると天守の構造が不規則になるので謎です。一説によると元々天守が無かったという話もあり、古地図の描き方も微妙なので不明です。 ただ、天守台にしか見られない構造がいくつかあります。一つはこれです。 石垣で囲まれた地下室のような空間です。これは松本城などの天守台にも見られる構造で、平時は物置として使われることの多い空間です。先ほど見た稲荷櫓の台にはこの空間はないので、裏付けとなりそうです。 さらにその入口にはこんなものもありました。 柱の束石です。これは銅門跡にも見られます。柱がズレないようにほぞを掘って差し込む構造で、これだけで建物があった証拠になります。ただ、この束石があまり多くはないので、石垣全体を覆うように大きな建物があったのか、もっと小規模な建物しかなかったのか、これだけではよくわかりません。 非常に眺めがいいです。晴れていれば、もっと良かったでしょう。夜になると一面夜景で溢れます。甲府盆地の景色は、文豪で有名な太宰治も絶賛していて、「シルクハットをさかさまにして底に小旗を立てたような、文化のしみとおったハイカラなまち」と評しています。 さらに北側を向くと、先ほど中を拝見した稲荷櫓を眼下に見ることができます。その周囲には芝生の庭が広がっています。 背後に見える山は愛宕山で、山頂には県立科学館、麓には名前の由来となった愛宕神社や、長禅寺をはじめとした寺院が立ち並んでいる信仰の山です。 さらに左へ向くと、甲府駅が見えます。甲府駅を縦断する舞鶴陸橋の先に見えるのが、丹下健三設計の山日グループ本社ビルです。丹下健三は、東京都庁や国立体育館を設計した方です。 最後に線路を渡って、山手門を見に行きます。清水曲輪のあった場所に甲府駅が作られてしまったばかりに、一部お城が分断されてしまい、飛び地のようになってしまっています。でも、忠実に再現することを目指しているため、本来と同じ場所に再建されました。 高麗門を突破すると虎口と呼ばれる部屋に誘われて、ここに兵が押し込まれます。すると櫓門と三方の城壁から弓矢と鉄砲で射かけられ、袋叩きにされるという仕掛けです。つまり手前の高麗門はダミーで、その奥に控える櫓門が本当の曲者という訳です。 そんな甲府城ですが、以前は城内に全く建物が残っておらず、石垣メインで堀が一部残っているだけの淋しい城でした。しかし、平成15年から随時建物が復元され、往時の姿を取り戻しつつあります。これからも資料が見つかり次第、復元するそうなので注目です。 ついでに行きたい寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |