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武田神社 [戻る]【住所】 山梨県甲府市古府中町2611 【主祭神】武田信玄 【創建】 1919年(大正8年) 【例大祭】4月12日 【摂末社】榎天神社 【社務所】あり 【ご神職】いる 【授与品】御朱印、御城印、御朱印帳、御守、おみくじ、破魔矢、熊手、絵馬、書籍など 【駐車場】大型バス10台 乗用車154台 駐車場使用時間 9:00~16:00 【HP】 http://www.takedajinja.or.jp/ 【御由緒】 大正4年、大正天皇のご即位に際し信玄公墓前に従三位追贈(じゅさんみついぞう)が奉告されたのを契機に、ご遺徳を慕う県民に武田神社ご創建の気運が沸き上がり、官民一体となった「武田神社奉建会」が設立され、浄財によって大正8年には社殿が竣工、4月12日のご命日には初の例祭が奉仕されました。 爾来、甲斐の国の総鎮護として祟敬を集め、平成11年にはご創建80年を迎え、祈祷殿「菱和殿(りょうわでん)」のご造営を始めとして各種記念事業が展開されています。 ホームページより 今回訪れたのは、武田神社です。この神社は初詣の参拝者が山梨県内で最も多いことで知られ、県内では一番人気ではないでしょうか。というのも、この神社の立地と主祭神に理由があります。それは、山梨県が産んだ英傑「武田信玄」の居館跡に建ち、「武田信玄」を祀っているということ。甲府駅南口の銅像の人物ですね。 武田信玄は戦国最強とも言われた、騎馬軍団で有名な戦国大名です。山梨県民にとっては郷土の誇りで、心の支えになっている人もいるでしょう。その武田信玄が生涯居館としていたのが、父信虎が建設した躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)なのです。当時、城と言えば山城で、信虎も要害山城を築きました。しかし、高い山のてっぺんに城郭があるため、普段生活するには不向きでした。そこで、居住用として平地に建てられたのが躑躅ヶ崎館でした。 しかし、武田家は徳川家と争った経緯から江戸時代には武田にまつわるものは、ことごとく禁止されます。そのため、武田信玄信仰も規制の対象に。戊辰戦争によって江戸幕府が倒れ、明治政府が樹立されるとようやくその禁が解け、信玄信仰の機運が高まりました。そして県民の念願叶って、館の跡地に武田神社は建てられたのです。 そんな経緯のある神社なので、その表参道にあたる武田通りにはこんな演出がされています。 電力会社の配電設備なのですが、その扉に武田二十四将のイラストが描かれています。写真は右から、武田信玄の同母弟の武田信繁(典厩)、武功派筆頭家老の馬場信春(信房)、飯富の赤備えで有名な山県昌景(旧姓飯富)、真田幸村の祖父で攻め弾正の異名を持つ真田幸隆(幸綱)です。秋山信友ら他の家臣たちの絵もありました。全て探すのも面白いです。 さらに、主要な家臣たちの居館の位置を示す看板などもあり、城下町だったのだということを感じさせてくれます。 そして、ここが居館だったことを一番如実に表しているのが、この堀ではないでしょうか。 太鼓橋を渡り、石段を登ったところです。振り返ると、現代の城下を一望できます。こうしてみると、小高いところに建っているのがわかります。それもそのはず、この辺りは相川によってできた扇状地なので、緩やかな傾斜になっているのです。 それとこの通路ですが、城館だった時代にはありませんでした。武田神社創建に伴って造られたもので、この切通しも明治時代以降に開削されたものですので、勘違いしないように。よく考えれば、主郭にダイレクトに入れる通路なんか城館に造る訳ないですから。本来の入り口は別にあってまだ残っていますので、この後ご紹介します。 そして石段を登り切り、石鳥居をくぐったところがこちらです。 お祭りの期間だったのか、協賛者の提灯がずらりと並んでいました。躑躅ヶ崎館跡だからか、参道の左右にはツツジが植えられ丁度咲いていました。 そして、参拝前に手と口をお清めしないといけないので、手水舎へ行くと・・・ 最後の鳥居をくぐると、社殿が現れました。右が拝殿で、左が菱和殿です。檜皮葺の屋根に唐破風のついた建築様式です。その軒下には武田菱の入った酒樽と大杯が、武田神社ならではです。それと、鬼瓦にも武田菱が入ってますね。 それと、左の菱和殿はいわゆる参集殿だと思うんですが、武田菱の入った格子戸を開けて入ると、格天井を見ることができます。この格天井に渡辺隆次氏の植物画が描かれています。私は画集で拝見しましたが、非常に見事です。「きのこの絵本」(ちくま文庫)という本を出版するくらいキノコ好きな方なので、日本間の天井画としては珍しくキノコの絵もあります。 この菱和殿の奥に天守台が残っているらしいのですが、見ることはできませんでした。ただ天守は戦国末期~江戸初期にかけての建築様式なので信玄の時代のものではなく、恐らく徳川支配期に改築された際、付け足されたのだと思います。 上が南です。武田信虎時代は主郭と西曲輪だけだったようですが、信玄の時代、勝頼の時代となるにつれて、梅翁曲輪、味噌曲輪、馬出などが増築されます。この増築は徳川時代まで続き、最終的にはちょっとした平城規模にまで拡張されました。 では、実際の遺構を見てみます。まず、西曲輪へ入る現在みその橋と呼ばれている場所です。 土塁の手前にお地蔵様がいます。地蔵菩薩なので何かの霊を弔っていると思いますが、いわれがどこにも書かれていないので、いつのものかわかりません。 石柱については神社の結界や神域を示すものなので、神社の創建以降に立てられたものです。そもそも石材が新しそうですし、極最近のもののようです。この石柱を過ぎると、 土塁に囲まれた四角形の広場が現れます。これは桝形虎口です。かつては土塁の切れ込み部分に櫓門、土塁上には狭間のある塀が築かれていました。攻め込んできた敵兵をこの虎口に囲い込み、三方から弓矢や鉄砲で袋叩きにする戦術です。 次は、主郭と西曲輪をつなぐ土橋から見た光景です。水面とモミジの光景が涼やかです。ただ、木々は視界を遮り邪魔になるので、館があった当時はなかったと思います。 ![]() ただ、こちらのほうが人の出入りが少ないせいか、石垣が多く残っていて、保存状態がいいかもしれません。対面のほうにも少し石垣があるのが、見て取れます。ちゃんと石で土台を組んで、構造物を作っていたことがわかります。 石垣に近づいて見ると、大きな石で周りを囲み、中に礫(れき)を詰めることで頑丈さとコストダウンを図っているのがわかります。この基礎の上に木材で門を作り、守りを固めていたという訳です。しかもこれだけの幅があれば、武者走りを兼ねた足場としても使われたかもしれません。 さらにその先へ進むと、細い土橋が現れます。 多分以前はもう少し幅があったかもしれませんが、風化に伴って削れてしまったものと思われます。ちなみに橋とは言うものの、下のほうに水を通すような穴は開いておらず、田んぼの畦のように盛り土をしただけの構造です。 せっかくなので雑兵の気分になってみたく、土塁の上に上がってみました。 木々でわかりずらいですが、かなり深い堀です。武田神社の北側は空堀になっているので、その深さがよくわかります。 その手前にもしっかりと深い空堀があります。一応館とはいえ、この堀の規模はそんじょそこらの城郭と変わりません。こんだけ深いと、ここを敵兵がよじ登るのは大変でしょう。ぬかるんでいたり落ち葉なんかあったりしたら、足をとられたり滑ったりして登り切れないと思います。 一通り見たのでお昼をいただこうと、武田神社の向かいにあるお蕎麦屋さんへ入りました。すると、客席と客席の間に立派な甲冑が飾られていました。しかも、戦国期に流行った当世具足(とうせいぐそく)。こんなところまで演出するかと、嬉しくなりました。 授与品ですが、御守を二種いただいてきました。まず一つ目は甲州金守です。武田信玄と言えば金山開発で有名で、碁石金と呼ばれる金貨を鋳造して軍資金にしていたことで知られています。その碁石金をオマージュした御守がこれです。金だけに、商売繁盛や金運上昇のご利益があります。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |