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長谷寺 [戻る]【札所】 江戸三十三観音札所 第22番 【住所】 東京都港区西麻布二丁目21番34号 【宗派】 曹洞宗 【本尊】 釈迦牟尼佛 【創建】 慶長3年(1598年) 【開山】 門庵宗関大和尚 【最寄駅】東京メトロ銀座線、千代田線、半蔵門線 表参道駅 【HP】 https://chokokuji.or.jp/ 【概要】 長谷寺(ちょうこくじ)は、東京都港区西麻布二丁目にある曹洞宗の永平寺東京別院。山号は補陀山(ほださん)。本尊は釈迦牟尼佛。また、観音堂には十一面観世音菩薩(通称、麻布大観音)が奉安され、江戸三十三観音札所の第22番札所でもある。 禅の修行道場として僧堂がある。 現在地は下渋谷村に属して渋谷ヶ原と呼ばれ、奈良の長谷寺と同一の木材で造られたと伝えられる観音像を祀った宇堂があった。山口重政が天正19年(1591年)徳川家康に招聘され江戸に上った際、渋谷ヶ原に下屋敷を拝領し、慶長3年(1598年)、この渋谷ヶ原観音堂を基に補陀山長谷寺を創建し、菩提寺とした。開山は家康と親交があり、泉岳寺の開山でもある門庵宗関であった。 その後、下野国大中寺末寺で天正12年(1584年)より溜池にあった普陀山瀧雲院と合寺し、寺格を高めた。 現在は高樹町交差点方面が正面口だが、江戸時代には西麻布交差点方面へ東に延びる道が表参道であった。突き当たった通り沿いには天和元年(1681年)門前町(渋谷長谷寺門前)が起立し、その向かい側に渋谷川の支流笄川が流れ、川の両側には原宿村字五反田の田地が広がっていた。現在笄川は暗渠となっている。 寺の裏手、現在の根津美術館には日向国高鍋藩秋月家下屋敷があり、屋敷内の池から境内の脇を通って笄川に至る支流が存在した。 寺の南側には広大な河内国丹南藩高木家屋敷や組屋敷が存在し、件の山口家下屋敷は高木家屋敷の南にあった。宝永6年(1709年)、現在の高樹町センタービル付近に渋谷御掃除町が成立したが、大部分は武家地であった。 明治になると、渋谷長谷寺門前・渋谷御掃除町・周辺の組屋敷と共に麻布区笄町に編入され、渋谷ではなく麻布地域に属することとなった。しかし、現在の参道付近は赤坂区青山高樹町に属し、高樹町側に正面口が設けられると、寺も高樹町と認識されることも多くなった。 昭和20年(1945年)東京大空襲により本尊・寺もろとも焼失したが、昭和52年(1977年)再興された。 Wikipediaより この辺りでは大きいほうのお寺なので、山門も大きいです。四脚門の様式で、永平寺別院の看板が掲げられています。ということは、曹洞宗総本山永平寺の出先機関にあたる直営のお寺ということで、格式がかなり高そうですね。 そんな山門を抜けると、まず見えるのが手水舎です。 木造のいたってオーソドックスな様式です。手水鉢も四角いよく見る形の物です。木材が黒ずんでいるので、そこそこ古いかと思います。 右奥には鐘楼も見えますね。梵鐘が吊るさっていますが、近年の世相から打ち鳴らすことはあるのかどうか・・・。そう思うと世知辛い。 手水舎の向かいには、二層の屋根のお堂が。 観音堂です。かなり特徴的な建物で、禅宗ではよく見かける火灯窓(釣鐘型の窓)だけでなく、丸窓も空いているし。恐らく禅の思想にある圓窓に倣っているのでしょう。 それよりも、天守閣のような造りなのが目を引きます。正方形に近い間取りと、最上部に入母屋造を用いているためそう見えてしまう。 で、中へ入ると・・・ 中は吹き抜けになっていて、そこに巨大な木製観音像が安置されています。これは十一面観音菩薩で、通称麻布大観音と呼ばれています。いやいや、これは立派。後背まで含めるとかなりの高さで、この建物でないとそりゃ収まらんわ。 しかも、割と年季の入った観音像のように見えます。でも、こんなにデカくて立派で年季の入った観音像ですが、ご本尊ではないとのこと。思いっきり主役級に見えますけどね。 知らない人もいるかもしれませんが、船坂弘のお墓です。不死身の分隊長のあだ名で呼ばれた、旧帝国陸軍軍曹です。 パラオのアンガウル島に赴任し、骨折しても1週間で前線復帰するという驚異の回復力と反骨精神の持ち主で、大ケガによる出血多量と膿で瀕死の状態でも米軍の陣地へ突入し捕まってしまいました。米軍によってケガの治療がなされ、その後捕虜としてアメリカ国内をたらい回しになっている間に終戦。その際、アメリカの先進的かつ強大な経済力を目にし、日本の遅れを痛感。保釈され帰国すると、日本の学力や知識力を高めるべく本のデパートを作ることを決意。それがあの渋谷のスクランブル交差点にある大盛堂書店です。 だから、一番右の墓石には大盛堂の名前も入っています。 さらに、墓苑の一番奥には変わった形の大きなお墓もあります。 明治日本を代表する洋画家黒田清輝とその伯父で養父の黒田清綱のお墓です。黒田清輝は鹿児島出身で、法律勉強のためパリ留学時に、画家への転向を決意。この時に代表作の一つ「読書」を制作。帰国後、東京美術学校(現:東京芸大)の教員に就任。「湖畔」などの絵を制作しつつ、宮内省お抱え画師になるなどして、名声を高めました。 まあ、美術や日本史の教科書にも出てくる人なので、知っている人も多いかと。 近くには顕彰碑もあります。こちらも親子セットになっています。養父の清綱は政治家として活躍するかたわら歌人でもあったようで、親子で明治日本の芸術に貢献しました。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ 上に戻る |
