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大泉寺 [戻る]【住所】 山梨県甲府市古府中町5015 【宗派】 曹洞宗 【本尊】 釈迦如来 【創建】 1521年(大永元年) 【開基】 武田信虎 【最寄駅】JR中央本線・身延線 甲府駅 【HP】 Wikipedia 【概要】 戦国期に甲斐国守護の武田信虎は家督相続後に国内統一を進め、1519年(永正16年)には本拠を石和から甲府へ移転する。甲府は居館の躑躅ヶ崎館を中心とした城下町整備が進められ、それに伴い諸寺院も移転される。 大泉寺は大永年間に巨摩郡島上条に創建され、後に甲府へ移転される。『甲斐国志』に拠れば、もとは密教寺院の大川寺であったが、1521年(大永元年)に信虎は嫡男(武田信玄)誕生の際に霊夢を見て改宗・改称させたとする信玄誕生説話がある。 信虎期から晴信期にかけて中山広厳院や信濃国岩村田の龍雲寺とともに甲斐国領国内の曹洞宗寺院を統括する僧録所となる。 『広厳大通禅師譫語集』によれば二世住職の吸江英心(きゅうこうえいしん)は武田信縄の次男で、現在の甲斐市竜王町に所在する慈照寺の真翁宗見に師事する。吸江英心は永正16年(1519年)に武田信虎の甲府開創に際して、天桂禅長を招き大泉寺を創建する。 天桂禅長は加賀国能美郡出身で、甲斐国における最大門派となった雲岫派の法系。永正14年(1517年)に甲斐国へ入ると吸江英心と同じく慈照寺の真翁宗見の弟子となる。天桂禅長は大永4年(1524年)に死去し、吸江英心が跡を継ぐと二世住職となる。 父信虎を追放して国主となった晴信時代にも保護を受け、寺領の寄進を受けている。1564年(永禄7年)3月の火災では堂宇が焼失し、再建されている。 武田信玄の長女(黄梅院)は相模国北条氏政の室として嫁いだが、1568年(永禄12年)に死去した。信玄は黄梅院の供養と彼女のために出家した局(侍女)のために巨摩郡南古郷の地が知行として与えられ、1572年(元亀3年)には巨摩郡竜地に菩提寺である黄梅院が建立されており、大泉寺の子院となっている。 1574年(天正2年)には武田信虎が流寓していた信濃国高遠で死去し、同国岩村田(長野県佐久市)の竜雲寺から大禅師北高全祝が招かれて信虎の葬儀を執り行っている。葬儀に際しては、信虎3男の武田信廉(信綱、逍遙軒)の描いた武田信虎画像が奉納されている。武田勝頼時代にも寺領安堵を受け禁制を下されている。1578年(天正6年)には曹洞宗法度を制定しており、竜雲寺とともに信玄時代に信濃へと拡大した武田氏領国内の曹洞宗寺院を統括していた。 武田氏滅亡後も徳川氏から豊富系大名には寺領を安堵され国内曹洞宗寺院の管轄も続いたが、江戸時代には寺領は削減された。近世には甲府藩主・柳沢氏が岩窪(甲府市岩窪町)に黄檗宗寺院の永慶寺が創建されている。享保年間に柳沢氏は大和郡山に転封され、永慶寺仏殿が大泉寺に移築されているが、後に焼失している。 Wikipediaより こちらのお寺は、曹洞宗の大泉寺です。この辺りは古府中町と呼ばれており、武田信玄の父信虎が勝沼から転居して躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築いた際に城下町として整備した、甲府で最も古い地域の一つです。西に湯村山の湯村砦、北に詰め城の要害山城、西に愛宕山の愛宕砦、南に一条小山城(現:甲府城)に囲まれた狭隘(きょうあい)の地で、守るに適していたことからこの地が選ばれました。 そんな愛宕山の西麓に信虎が創建したのが大泉寺です。 訪れた日は春の中旬くらいだったので新緑がまばゆい感じですが、秋になるとこの辺りの木々が紅葉するそうで、赤や黄色に染まった華やかな姿を見ることができるとのことです。 こちら、武田信虎公廟です。小さいですが、ちゃんとお堂まであります。風林火山の旗は信虎の代には使われていないのでちょっと違うかなと思いますが、嫡男の信玄が使っているところは見ているので、まあいいかなと。雰囲気出したいしね。 そのお堂がこちらです。 こちらも浄財箱に武田菱が描かれています。その傍らには軍配団扇(ぐんばいうちわ)が。確かに信虎も軍配使ったけど、どっちかというとこれも信玄のイメージから引っ張ってきたものではと思われます。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |
