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方広寺 🕶 [戻る]【住所】 京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2 【ご本尊】盧舎那仏 【創建】 文禄4年(1595年) 【開山】 古渓宗陳 【開基】 豊臣秀吉 【寺務所】なし 【ご住職】不明 【授与品】なし 【駐車場】あり 【HP】 なし 【御由緒】 豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として文禄4年(1595年)に創建された。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた。大田南畝著とされる『半日閑話』(街談録)には3代目大仏が落雷で焼失した時について「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也とあり、3代目大仏の焼失は京都民衆に大変惜しまれた。東大寺大仏と異なり、3代目大仏は木造であったため、大仏は(台座・基壇を除き)跡形もなくなってしまった。 東大寺大仏殿の再建が完了した宝永6年(1709年)から、方広寺大仏・大仏殿が落雷で焼失した寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代の東大寺大仏殿再建にあたり、方広寺2代目大仏殿を手本として大仏殿が設計されたことから、現存の東大寺大仏殿の建築意匠は方広寺大仏殿のそれを引き継いだものと言っても過言ではない。 天保14年(1843年)に規模が縮小されつつも再建された4代目大仏は、1973年(昭和48年)まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した。 Wikipediaより 豊国神社の隣ということで、一緒に見物に来ました。本堂は閉め切っていて(というかホームページすら開設していない)人けが無く、殺風景な境内です。豊臣秀吉が建てたお寺ということで、かつては広大な境内と大きな大仏殿が見る者を圧倒した大寺院でしたが、今は大仏もろとも失い、その跡地は方広寺大仏殿跡緑地公園になっています。 まあ、4度も火災にあっては、再建する気にもなれないでしょうしね。しかも、4度目の再建ではかなり規模を縮小したそうなので、もうすでにお金も気力も尽きてたのかも。そんなかつての威容を失った現在の寂びれた姿からは、とても日本史の教科書に載るような大事件のきっかけとなったようには見えません。 しかし、幸いにもその証拠がこのお寺にはしっかりと残っています。それがこの鐘楼です。 こんな人っ子一人見当たらない(ごくまれに見物客を見かけるくらい)お寺には似つかわしくない、あまりに大きくて立派な鐘楼です。さぞかし見事な梵鐘があるのだろうと想像してしまいます。では、登って中を見てみます。 これまたかなりデカい梵鐘です。こんなに大きなものは、京都お寺多しと言えども中々見かけないですよね。鐘楼自体は明治の再建だそうですが、よく見ると天井画まで描かれていいます。格天井になっていて、マス目ひとつひとつに鳥などの絵が描かれており、非常に豪勢です。さすが豊臣秀吉開基のお寺と言わんばかりの、格調高い造りです。 そしてよくよく梵鐘を見ると、左上のほうに何やら白い印が見えます。とても怪しいのでアップして見てみます。それがこちらです。 「国家安康」「君臣豊楽」の四字熟語が書かれています。実はこれ、徳川家康が大坂冬の陣を豊臣秀頼に吹っかけるにあたって言いがかりをつけた(側近の本多正信の入れ知恵とも)箇所です。つまりこのお寺は豊臣秀吉が作らせた方広寺で、この梵鐘は跡取りの豊臣秀頼が奉納し大阪冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の現物です。まあ、こんな小さいところにイチャモンつけて戦国最後の大戦を仕掛けるって、いくら何でも無理くり過ぎるだろって思いますけどね。そんな梵鐘が未だに現存し、見ることができたのは感動でした。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |
