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豊国神社と方広寺
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豊国神社

【住所】 京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町530

【主祭神】豊臣秀吉

【創建】 慶長4年(1599年)

【例大祭】9月18日

【末社】 貞照神社、槇本稲荷神社

【社務所】あり

【ご神職】いる

【授与品】おみくじ、御札、御守、絵馬、御朱印、御朱印帳

【駐車場】あり

【X】  https://x.com/toyokunishrine

【御由緒】
豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。現在の敷地の大部分は、かつて京の大仏を安置する方広寺の寺領であったが、明治新政府により収公され、最終的に豊国神社境内となった。豊国神社の参道に敷かれる石材は、方広寺境内収公にあたり、寛政10年(1798年)の焼失後も残されていた方広寺大仏殿の内部及び基壇に敷かれていた床石材を転用したものである。

主祭神の居城があった大阪市中央区の大阪城公園や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が建てられている。

Wikipediaより



方広寺

【住所】 京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2

【ご本尊】盧舎那仏

【創建】 文禄4年(1595年)

【開山】 古渓宗陳

【開基】 豊臣秀吉

【寺務所】なし

【ご住職】不明

【授与品】なし

【駐車場】あり

【HP】  なし

【御由緒】
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として文禄4年(1595年)に創建された。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた。大田南畝著とされる『半日閑話』(街談録)には3代目大仏が落雷で焼失した時について「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也とあり、3代目大仏の焼失は京都民衆に大変惜しまれた。東大寺大仏と異なり、3代目大仏は木造であったため、大仏は(台座・基壇を除き)跡形もなくなってしまった。

東大寺大仏殿の再建が完了した宝永6年(1709年)から、方広寺大仏・大仏殿が落雷で焼失した寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代の東大寺大仏殿再建にあたり、方広寺2代目大仏殿を手本として大仏殿が設計されたことから、現存の東大寺大仏殿の建築意匠は方広寺大仏殿のそれを引き継いだものと言っても過言ではない。

天保14年(1843年)に規模が縮小されつつも再建された4代目大仏は、1973年(昭和48年)まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した。

Wikipediaより
 京都の東山区に鎮座する豊国神社です。隣には戦国の一大事件のきっかけとなった有名なお寺もあるので、一緒にご紹介します。

 まずは豊国神社から。豊国の「豊」は豊臣の豊から来ていることから何となくわかりますが、戦国の三英傑の一人、太閤豊臣秀吉公をお祭りしています。というか、この神社の奥宮に豊臣秀吉の霊廟があります。徳川家康の東照宮に先んじてお墓が神社になってしまっています。

 なので境内には、豊臣秀吉の像も鎮座しています。生前は関白、太閤として諸大名や諸将を出迎えていましたが、現在は神として一般の参拝客を暖かく出迎えています。

 ただ実体は霊廟だからか境内の奥へは柵があって進むことができませんでした。神門の前までのようで、ここでお祈りを捧げて終わりのようです。奥にもいくつか建物が見えるのに、う~ん残念です。

 とはいえ、この神門が唐破風のある檜皮葺の大きな門で、さすがに秀吉の偉大な権威が現しているようです。その両サイドに絵馬が大量に括りつけられているのですが、この形が瓢箪の形で、秀吉の馬印である千成瓢箪に合わせているのがまたにくい演出です。

 境内は割と広いですが特にこれといったものは他にない(というかほとんど立入禁止エリアになっていて見れない)ので、となりの曰くつきのお寺に行きます。

 というわけでそのお寺に来たのですが、大仏殿も失い本堂も閉め切っていて(というかホームページすら開設していない)人けが無く、殺風景な境内です。とても学校の日本史の教科書に載るような大事件の舞台となったようには見えません。が、しっかりとその証拠がこのお寺には残っています。

 それがこの鐘楼です。

 こんな人っ子一人いないお寺には似つかわしくない、あまりに大きな鐘楼です。さぞかし立派な梵鐘があるのだろうと想像できます。では、登って見てみます。

 これまたかなりデカい梵鐘です。こんなに大きなものは、京都お寺多しと言えども中々見かけないですよね。鐘楼自体は明治の再建だそうですが、天井画まで描かれていて豪勢です。増々なんでこんな立派なものがこのお寺にポツンとあるのか気になります。

 よくよく梵鐘を見ると、左上のほうに何やら白い印が見えます。とても怪しいのでアップして見てみます。それがこちらです。

 「国家安康」「君臣豊楽」の四字熟語が書かれています。実はこれ、徳川家康が大坂冬の陣を豊臣秀頼に吹っかけるにあたって言いがかりをつけた(側近の本多正信の入れ知恵とも)箇所です。つまりこのお寺は豊臣秀吉が作らせた方広寺で、この梵鐘は跡取りの豊臣秀頼が奉納し大阪冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の現物です。まあ、こんな小さいところにイチャモンつけて戦国最後の大戦を仕掛けるって、いくら何でも無理くり過ぎるだろって思いますけどね。そんな梵鐘が未だに現存し、見ることができたのは感動でした。

 では、御朱印です。小筆でサラサラと書かれているのでインパクトはありませんが、書き慣れている感があるのでどこか上手さが伝わってきます。書かれている字は「奉拝 壽比南山 関白 福地東海 日付」で、寿命も福も共に仙人と同じように永く多かれという意味だそうです。

 上部の家紋は豊臣家、羽柴家の紋と同じ五七桐。中央には農民から関白にまで上り詰めた秀吉の功績にあやかって、出世開運のご利益の字が入っています。下部には秀吉のトレードマークである瓢箪の印。秀吉をイメージするものを集めたような、豊国神社ならではの御朱印です。


ついでに行きたい近くの寺社
【三十三間堂(蓮華王院)】七条エリア

修学旅行先としても人気の超定番スポット
無数に並んでいる千手観音像は圧巻で、神秘的かつ幻想的
本堂が極端に長いことから、弓道の腕を試す通し矢でも知られる

注目の記事
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