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智積院 [戻る]【指定】 国宝 国の重要文化財 国の名勝 【住所】 京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964 【宗派】 真言宗智山派 【本尊】 金剛界大日如来 【創建】 慶長6年(1601年) 【開山】 玄宥 【最寄駅】京阪本線 七条駅 【HP】 https://chisan.or.jp/ 【概要】 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄宥。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺および東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。 智積院は、もともと紀伊国根来(現・和歌山県岩出市根来)にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大伝法院を根来に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので根来山内の学問所であった。 近世に入ると根来寺は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで全山炎上した。当時の根来寺には2,700もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は根来攻めが行われる前に弟子たちを引き連れて寺を脱出し、高野山に逃れた。その後、玄宥は新義真言宗の法灯を守るために智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた。これにより、智積院はようやく復興を遂げた。 3代目住職日誉の代、慶長20年(1615年)に豊臣氏が滅ぼされると、江戸幕府から隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺を与えられて吸収合併し、さらに規模を拡大させ、山号を現在も根来に名を残す山の五百佛山、復興後の智積院の寺号を根来寺とした。祥雲寺は、豊臣秀吉が3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提を弔う為、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたものである。この客殿は天和2年(1682年)7月の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせた為と推定されている。 金堂は元禄14年(1701年)3月、第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川綱吉母)より与えられた金千両を基にし、学侶からの寄付金を資金として宝永2年(1705年)春に建立された。しかし、1882年(明治15年)に火災により焼失した。1947年(昭和22年)には講堂が火災にあい、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失している。 金堂は1975年(昭和50年)に再建され、次いで講堂も1995年(平成7年)に再建された。その際、講堂再建に先だって1992年(平成4年)に発掘調査を実施したところ、その結果講堂の跡地の下から祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことが改めて裏付けられた。 ウィキペディアより 真言宗智山派の総本山である智積院です。すぐ近くには、修学旅行の定番見学先の三十三間堂があります。この辺りは寺町で、5、6軒のお寺が建ち並んでいますが、その中でも最も大きいのが智積院です。大通りの七条通のドン付きにあることからも、格の違いを見せつけています。 で、その正面にあるのが総門です。 総本山とは思えない、こじんまりとした門です。南禅寺や知恩院だとかなり立派な楼門が建っているのに。まあ、とりあえず中へ入ろうかと思います。 が、柵があって中へ入れません。仕方ないので、右へ回って見みます。すると駐車場入口があって、ここから無事に中へ入れました。 そこからクランクだらけの石畳の参道を進むと、金堂が現れました。 さすがにお堂は大きくて立派です。かなり重厚感もあって、神妙な面持ちになります。浄財を投じて、ご本尊様へお祈りを捧げます。 この後、智積院宝物館も拝観しました。ここには稀代の日本画家長谷川等伯の襖絵があるんですね。こういう美術品の館内は撮影できないのでお見せできないのが心苦しいのですが、言葉が出なくなるくらい見事な襖絵でした。しかも、一部屋まるまる復元したものも用意されていて、往時の姿を見ることもできました。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |