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新たな国府になるはずだった新府城🏯 [戻る]新府城 【指 定】国の史跡 続日本100名城 【住 所】山梨県韮崎市中田町 【築城年】1582年(天正10年) 【廃城年】1590年(天正18年) 【築城主】武田勝頼 【構 造】連郭式平山城 (武田流築城術) 【遺 構】土塁、堀、井戸、出構 新府城(しんぷじょう)は、山梨県韮崎市中田町にあった日本の城。1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。 甲府盆地西部に位置する。八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。 石垣は使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられる。 近年発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。また、陶磁器類も出土している。支城として白山城・能見城がある。 武田勝頼期の武田家の築城の特徴として、台地の突端部(側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造が挙げられる。 具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせる。横矢を掛け敵兵を攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を無力化できる。同様な構造の代表的な城に遠江では諏訪原城・小山城、信濃では大島城がある。ただし、新府城の場合は現在遺構とされる城跡ではなく、能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ(浅野家文庫・諸国古城之図)、上に挙げた城に比べその規模の大きさは群を抜く。また能見城防塁は複雑に屈曲し、最大限横矢を掛けられるような構造となっており防塁が多数配置されている。 ただし諏訪原城は発掘調査から現在見られる縄張は徳川家が整備したことが判明しており、新府城の北側防塁も天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説がある。 このような大規模な構造から、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となるようである。 実際、天正壬午の乱においては、徳川家康の北条氏直の軍に対する本陣として使用されている。 有効であったかどうかは定かではなく意見の分かれるところだが、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。 使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7-8キロメートル、東西2キロメートルという周辺の自然地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城である。 Wikipediaより 出構と外堀 まずは北側、搦手のほうへ向かいます。こちらは八ヶ岳から続く段丘上にあたり、新府城で最も高低差が少ない弱点にあたるエリアです。そのため、ここの外堀は最も大きく造って、防御を高めています。 さらに特徴的なのが、城から飛び出した2つの突堤の東出構(でがまえ)と西出構えです。試験的に導入されたらしく、西洋城塞のヴォーバン式稜堡と目的が同じと考えられています。この東西の出構にいる兵と外曲輪の兵をもって、その袋小路に集まった敵兵を三方から挟撃して一気に殲滅する仕組みのようです。 余談ですが、この辺りはかつて盛んだった養蚕の名残で、飼料用に植えられた桑の木が今でも残っています。ちょうどこの時期は桑の実(桑グミとも)がなっていて、いくつか食べさせてもらいました。結構甘くて美味しいんですよ。その代わり、手や口が果汁で汚れやすいですけどね。 さらにこの外堀周辺には、自治体が設置した説明用の碑がたくさんあります。新府城の立地と地形、外堀の構造、新府城の全体像、新府前史~廃城までの年表を見ることができます。 八ヶ岳溶岩台地と七里岩という天然の要害や先ほど説明した出構、新府城全体の構造や武田式築城術なんかを、図と写真と昔の絵図入りで説明されていて、初めて来る方にもわかるようになっています。 搦手・桝形虎口 こちらが搦手口です。搦手とは城の裏口のことです。敵の侵入が想定されるので、守りを固めるために桝形虎口(ますがたこぐち)という小さな四角いスペースを設けてあります。この虎口に一旦敵兵をおびき寄せ、すし詰めにしたところで周囲から集中攻撃を仕掛け、一気に畳みかける戦法を採ります。 そのためここには櫓門があったと考えられ、実際に掘っ立て柱を立てた穴が発掘されたようです。周囲にめぐらせた土塁も残っており、その土塁の切れ間に門を設けました。その土塁の切れ間を見ると地面に岩が埋まっていて、恐らく柱を立てる束石ではないかと思われます。 土橋・木橋 桝形虎口を抜けるて少し進むと、土橋が現れます。土橋とは土を盛って造った細い通路のことで、両サイドが崖になっているのが特徴です。左下の写真がそうで、土橋の左が堀(外堀とつながっている)、右が七里岩の断崖絶壁で、どちらに落ちても大ケガするような場所です。 こことは別の箇所には木橋もあったそうで、中下の写真の場所に架かっていました。この木橋がいざとなったら落とせる構造になっていたようで、敵兵を橋までおびき寄せて堀の底へ落とすつもりだったようです。いや~、どっちへ行っても怖い。 井戸 こちらが井戸と呼ばれるものです。ここは丘陵の上なので、自然に水が湧くとはとても思えません。実際水は湧いておらず、どうやら雨水をためておく溜池だったようです。ただ、発掘調査では長年の土砂の流入でかなり埋まっていて底が見えなかったそうで、完成時はもっと深かったようです。 二の丸 こちらは二の丸です。広く平らなスペースになっていて、その周りを土塁が囲んでいます。ちょうどボランティアの方々が草刈りをしていて、より城郭の形状がわかりやすくなっています。 下の写真に写っている土塁は南側のもので、途中切通しになっている部分があるのがわかります。恐らくそこに門があって、そこを出ると三の丸とつながる通路があったものと思われます。 本丸 こちらが武田勝頼の御殿があったと思われる本丸です。現在、ここの一部は藤武神社の境内となっており、拝殿、本殿、社務所、境内社、武田勝頼公霊社、長篠戦役諸将慰霊碑なんかがあります。周辺は芝生になっていて、だだっ広い空間になっています。 一見まっ平のように見えますが、社殿の建っているところだけが一段下がっています。もしかしたら本丸南側にあった主殿に直接入ってこれないように、東から北に向かって緩いスロープにして遠回りさせるように造ったのかもしれません。 丸馬出と三日月堀 では、新府城の中で最も武田流築城術が見える場所へ行きます。それは南東にある大手口です。ここにある丸馬出(まるうまだし)は武田氏が好んで用いた形状で、長野県の深志城(現松本城)や静岡県の田中城でも導入されました。これを臣下であった真田氏も継承し、応用したのが大坂城に造られた真田丸です。※新府城の設計も主に真田昌幸が担当した。 これを囲むように掘割も造られ、その形状から三日月堀と呼ばれています。 大手 こちらが大手門跡です。下の写真の土塁の切れ間に、大手門が建っていました。先ほど見た丸馬出と大手門の間にも桝形虎口があるので、大手口を突破するには馬出→虎口→大手門と三つの関門を突破しなければならない構造になっていました。 今では土塁は草に覆われ、その中でホタルブクロがかわいい紫色の花を咲かせていました。 御城印 では御城印です。普段無人で授与所がないため、新府城内でもらうことはできません。2kmほど南、韮崎市中央公園近くにある韮崎市民俗資料館で御城印を販売しているので、ご注意ください。 まずは左から。続日本百名城のバージョンです。百名城からの通し番号になっているので一二七番と書かれていますが、続としては27番目ということです。楷書体で書かれた新府城の字が格好いいですね。ハンコには新府城跡と書いてあります。右上に「大」のハンコが押されていますが、これは武田勝頼が馬印に使っていた旗に大と書いていたことからのオマージュです。 続いて右側。こちらには大きく力強い金字で、「大」と書かれています。まあ、さっきみたいに小さい字で大と書いたら、ちゃうやんけってなるからね😅 それはそうと、右上に龍の絵が入ったハンコがありますが、これは武田勝頼が用いていた印判のレプリカだろうと思います。左下の獅子のハンコは??? ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |
