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藤武神社 [戻る]武田勝頼と長篠の戦いで散った諸将を祀る城跡の神社 【住所】 山梨県韮崎市中田町中條4787 【主祭神】倉稲魂命(保食神)、天照大神、月読命、稚産霊命、武田勝頼公 【創建】 天正年間 【例大祭】4月20日 【末社】 武田勝頼公霊社 稲荷社? 大嶽山(御嶽神社?)など 【社務所】あるが無人 【ご神職】普段は不在 【授与品】近郊の韮崎市民俗資料館にて御城印を配布 【駐車場】あり 【最寄駅】中央本線 新府駅 【HP】 https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6026(山梨県神社庁) 【御由緒】 「お新府さん」と呼ばれ、武田哀史をとどめる新府城跡にある。文化三年拝殿改築の棟札によると、藤井庄と武田庄とを前後に見下す所に在るので藤武神社といふ。天正年中勝頼公が新府築城の節、城内稲荷郭に鎮守として祀ったが落城とともに焼失した。しかし徳川神君様の藤武神社に対する尊崇あつく、平岩七之助に命じて再建され、藤武神、稲荷神同殿に鎮座して藤武神社と称したといふ。 山梨県神社庁HPより 今回訪れたのは、藤武神社(ふじたけじんじゃ)です。あまり聞き慣れない名前ですが、非常にいわくつきの興味深い神社です。 県道17号線(七里岩ライン)に面して石段があります。本当はこの背後にも少し参道があって石鳥居が建っているのですが、17号線の新道ができた関係でちょっとルートが変わってしまいました。 まず注目するのが、何といっても石段右にある石碑ですね。この手の石碑といえば通常は社号碑ですが、よく見てください。「史跡 新府城跡(しんぷじょうあと)」とあります。そう、ここは武田信玄の後を継いだ武田勝頼が、織田の軍勢への備えとして築城した新府城の中なのです。 八ヶ岳の溶岩流と釜無川の浸食によってできた長大な崖、七里岩を生かし、真田幸村の父、真田昌幸が主に設計を担当しました。新府の名の通り甲府に代わる新しい府中ということで築城が進められたため、かなり大規模な平山城です。 最初の石段を登ってくると、真っ赤な両部鳥居(りょうぶとりい:主脚の他に4本の支柱が添えてあるタイプの鳥居)が鎮座していました。後で知ったのですが主祭神が倉稲魂命(うかのみたまのみこと)という稲荷神なので、鳥居も赤かったのですね。 右を見ると、 「参道(乙女坂)」とあります。この一見山道に見えるところが、その参道のようです。九十九折り(つづらおり)になっているので石段よりは坂が緩いですが、なにせ山道なもんで足元が悪い(特に雨の日は)。さて、どっちを行ったものか? とりあえず石段を登り続けますが、ひたすら真っ直ぐな長い石段が続いています。 当たり前ですが、この石段は新府城が廃城になった後、神社の再建に伴って新たに造ったものです。本丸まで真っ直ぐダイレクトに行けるルートがあるのは、お城としては致命的ですからね。築城当初、存在するはずがありません。 さっき見た鳥居が大分小さく見えるのがわかりますか?かなりの高さがあるのを感じ取れます。これでもまだ途中で、まだ石段が続いています。城跡だけに、かなり高低差がある。 途中途中に踊り場があるのでまだいいですが、手摺りがないのが辛いですね。例大祭の時にはここを御神輿を担いで登るそうで、これは大分息が上がりそうです。いや~、東京の愛宕神社の石段も急で高さもあってかなり登るの大変でしたが、ここは急ではないものの高さはそれ以上あってキツイですね。 ようやく頂上が見えてきました。鉄柱で作った赤い鳥居もどきみたいなものが待ち構えています。周囲は杉だかヒノキだかが生えていて、お城があったとは思えない光景です。500年も経つと、こんな山林に戻ってしまうんですね。 ようやく、長い石段を登り切りました。すると周囲には数多くの石碑が並んでいました。 こうしてみると、結構新しいものがありますね。特に上の写真の真ん中の石碑、太鼓一式奉納とあります。奉納者がアメリカヤという、韮崎駅のホームからでも見える超目立つビルじゃないですか。あ~、あそこ寄付したんだ😲 他にもこんなに。 まあ、ありますね。というか、太鼓の奉納がいっぱい。そんなに太鼓要るか? 入母屋に唐破風がついた、日枝造とも権現造とも言えない、変な様式です。微妙に現代の部材や建具が使われていて、その時々の都合で修繕された感があります。 手前の階段脇には石積みがわずかにあるものの、崩れていてちゃんと石垣があったのかどうか怪しい。その一方で立派な石灯籠があります。 こちらは、社務所です。ただし無人で、授与所はありません。まあ、田舎の神社の社務所は、大抵例大祭の時の詰め所や客間という位置づけなので、普段は人がいないことが多いですね。 では、ここからは神社裏にあたる、新府城の本丸跡にあるスポットを見ていきます。まずは南側の土塁沿いある境内社です。 祠がいくつか並んでいます。非常に古そうなシンプルな祠ですが、元々ここにあったものかどうかわかりません。少なくとも築城時にはなかったはずで、近隣の住民が家から持ってきた可能性もなきにしもあらずです。 ちなみに本丸跡はこんな感じです。こうして見ると結構広い。一面原っぱが広がっています。ここに城主である武田勝頼の御殿があったものと思われます。奥に見えるのは、先ほど拝んだ藤武神社の社殿です。よく目を凝らすと、右側には祠も見えます。 何にも書いてないですが、赤いことから恐らくは稲荷神社ではないかと思います。そもそも御本社の主祭神が稲荷神の倉稲魂命なので、元宮かもしれません。 その背後には、「国指定史跡 新府城本丸跡」の柱が。山梨県有数の規模を誇り、一時は武田氏の居城ともなったので、国指定になっています。 しかし、実際に勝頼がここに居住したのは2ヶ月ちょっとだけでした。織田信長配下の滝川一益・河尻秀隆率いる軍勢の侵攻が予想よりも早く、まだ未完成で9割程度の仕上がりでは籠城しても防ぎきれないと判断したためでした。 今度は本丸の北側を見ていきます。まずはこの石碑から。 甲斐国主武田氏四百年~の碑です。見上げるほど巨大な石板に、つらつらと平安末期から続く甲斐武田氏の歴史が書かれています。 そんなに詳しくはないですが、これが建てられた経緯と伝承を記載しています。ただ、江戸時代幕府の命令で甲斐国内において武田関連を祀り崇拝することが禁止されていたので、バレないように当時はかなりコソッとやっていたと思われます。石祠が小さいのもそのためかと。 それからこんな、日本史の教科書に出てきたワードが書かれた石碑もあります。 頭に長篠と書かれていますね。長篠の戦で亡くなった諸将の霊を弔うために建てられた慰霊碑です。揮毫は、当時の山梨県知事天野久氏。山梨県では有名な酒蔵笹一酒造の創業者で、三男の天野建氏も後に山梨県知事になっています。 背後にある岩が何なのかはわかりませんが、樹木の生えている盛り土は本丸を囲む土塁の名残です。こんな感じで山の中を散策すると、結構土塁がそのまま残っていて現代でもその形を見ることができます。搦手の桝形虎口とか、大手門前の武田流丸型馬出と三日月堀とか、北側にある外堀と東西の出構、井戸(ため池)なんかがまだ残っています。 こちら側の墓標で有名なのは、馬場信房。馬場信春ともいい、武田二十四将・四天王のひとりです。70回以上戦に参加しながら全く傷を負わなかったことから、「不死身の馬場美濃」「不死身の鬼美濃」の異名をとりました。長篠では撤退戦で殿(しんがり:最後尾で敵を食い止める役)を務め、果てた武将です。 山県昌景も、歴史、信長の野望ファンならご存じでしょう。昌景も武田二十四将・四天王で、武田軍の先鋒を多く任された武功派です。特に三方ヶ原の戦では徳川家康を執拗に追いかけ、徳川軍をこてんぱんにしたことで有名です。 他では、真田信綱、昌輝は、真田幸綱(幸隆)の子で、真田昌幸の兄、真田信繁(幸村)の伯父にあたります。両名も武田二十四将に数えられています。 では御朱印です・・・といきたいところですが、無人の神社で授与所がないため、御朱印どころか御守やおみくじ、御札の配布すらありません。 しかし、2kmほど南、韮崎市中央公園近くにある韮崎市民俗資料館で新府城の御城印を配布しているのでご紹介します。 まずはこちら。 続日本百名城のバージョンです。楷書体で書かれた新府城の字が格好いい。ハンコは新府城跡と書いてあります。右上に「大」のハンコが押されていますが、これは武田勝頼が馬印に使っていた旗に大と書いていたのを模しています。 もうひとつあります。 こちらには大きな金字で、「大」と書かれています。大だけに・・・💧 それはそうと、右上に龍の絵が入ったハンコがありますが、これは武田勝頼が用いていた印判のレプリカだろうと思います。 ついでに行きたい近くの寺社 武田八幡宮 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |
