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酒折宮 [戻る]日本武尊創建にして連歌発祥の地 【住所】 山梨県甲府市酒折3-1-13 【主祭神】日本武尊 【創建】 不詳 【例大祭】10月17日 【社務所】あり 【ご神職】在職 【授与品】お守り、 【駐車場】二の鳥居前の参道に数台停めるスペース有 【HP】 http://sakaorinomiya.jp/ 【御由緒】 酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社です。記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、 「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」 と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が 「かかなべて夜には九夜日には十日を」 と片歌で答えたことが記載されています。この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われています。 当宮の由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに 「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」 と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)*」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。 日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと伝えられています。 * ここにいう「火打嚢」は、日本武尊が東夷征伐に向かわれる前に参った伊勢神宮で叔母の倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とともに授けられたものです。駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、これを用いて難を免れたといいます。(古事記による) ご祭神である日本武尊が酒折宮に御鎮座したのは、今から1900年前のことです。 塩海足尼が社殿を建て鎮祭した当初の酒折宮は、現社地の北側の、月見山の中腹にありました。 月見山は三角錐のかたちをした「神奈備山(かんなびやま)」と言われる山で、当時は山そのものがご神体と見なされ、人々の信仰を集めていたとも考えられます。(神奈備山信仰は神社の原初的形態で、奈良県の大神神社の三輪山信仰がよく知られています) 酒折宮の旧跡「古天神」の周辺には古墳やたくさんの石造物が点在しており、考古学的価値のたいへん高い場所*であると言われています。 * 平成22年には、山梨学院大学考古学研究会による不老園塚古墳(酒折宮古天神古墳)の学術発掘調査が行われました。 http://www.yguppr.net/100921ygu_main.html また、酒折の地は甲斐の国の治所の置かれたところでした。 甲斐の国から他の国に通ずる九つの主要道路は、すべてここ酒折を起点としていたようです。いつのころか社殿は古天神より現在の場所へ移されました。 そして、明治13年6月に明治天皇ご巡幸の際、徳大寺侍従長がご代拝されたのをはじめ、皇族貴顯のご参拝が数多くありました。 なお、現在の社殿は、大正5年に火災で焼失したのち新築したもので、昭和17年11月に竣工した建物となっています。 ホームページより 今回訪れたのは酒折宮です。JR東日本の中央本線酒折駅から5分ほど歩いたところにあります。周辺にはかつて箱根駅伝で一世風靡した山梨学院大学や高校サッカー選手権大会で優勝経験を誇る山梨学院高校があります。 そんな酒折駅北口ロータリーから西へ路地の間を進むと、南北に貫く酒折宮の参道に行き当たります。 二の鳥居前はちょっとした広場になっています。左の道路は左へカーブしていて、甲斐善光寺へと続いています。散歩がてらに行くのもいいかもしれません。 さて酒折宮ですが、鳥居へ近づくとこんな感じになっています。 日本武尊と身分の低い焚き火番の老人が詠んだ連歌の碑があります。古事記、日本書紀によると東国遠征の帰りに夜、尊が 「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」 意味:常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか と家臣たちに歌いかけたところ、家臣の中に答える者がおらず、身分の低い焚き火番の老人が 「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」 意味:指折り数えてみますと九泊十日かかりました。 と歌で返したとのことで、この老人の機知に感動し東国造に任命したとのこと。さらに、二人で一つの和歌を詠んだことから、連歌発祥の地と呼ばれるようになり、学者や文化人が訪れるようになったとのことです。 手水舎を過ぎると、一際大きな石碑がお目見えしてきます。江戸時代の国学者、本居宣長の石碑です。全て漢字。全く読めません。この碑文を見た作家井伏鱒二は、「まるでクイズをやらされているようなものだ」と言ったそうで、私も同感です。 その隣には甲斐出身の国学者である山県大弐の石碑があります。こちらもぎっしりと漢字で埋められています。とても読む気になれません。山県大弐は山梨県の甲斐市篠原出身の学者で、尊王攘夷を唱え、幕末の討幕運動の機運を高めるきっかけを作った人物です。 山県大弐は、武田信玄の重臣で先鋒を任され、武田二十四将に数えられる山県昌景の子孫を称していました。武田家は織田信長と共に徳川家康によって滅ぼされていますから、大弐は徳川に対して反抗心があったかもしれません。 では、拝殿へ向かいます。 こちらが拝殿です。大正6年(1917年)に火災にあったそうで、かつての入母屋造りの社殿は残っておらず、再建されたそこそこ新しい社殿が建っております。その際に古代で主流だった神明造に様式を改められたようです。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |