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瀧泉寺(目黒不動尊) [戻る]【住所】 東京都目黒区下目黒3-20-26 【宗派】 天台宗 【本尊】 不動明王 【創建】 伝・808年(大同3年) 【開基】 伝・円仁 【札所】 江戸五色不動 江戸三十三観音札所 第33番 関東三十六不動 第18番 元祖山手七福神(寿老人) 【最寄駅】JR山手線・東急目黒線・東京メトロ南北線・都営三田線 目黒駅 東急目黒線 不動前駅 【HP】 https://megurofudo.jp/ 【概要】 瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒に所在する天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王像を本尊とすることから、古くより「目黒不動尊(めぐろ ふどうそん)」「目黒不動」「お不動さん」などと通称されている。 江戸三大不動の一つ。江戸五色不動の一つ。江戸三十三観音札所第33番札所。関東三十六不動第18番。一帯の地域名「目黒」は当寺に由来するとの説がある。サツマイモの栽培を広めた青木昆陽の墓があることでも知られる。 【由緒】 寺伝では、大同3年(808年)、15歳の円仁が下野国から比叡山の最澄の元に赴く際この地で霊夢を見た。青黒い顔をし、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持つ恐ろしい形相の神人が枕上に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられたという。夢から覚めた円仁がその姿を彫刻したのが、本尊の目黒不動明王になる。 堂宇建立を決意した円仁が法具の獨鈷を投じたところ、そこに泉が湧出した。その泉は「獨鈷の瀧」と名付けられ、この泉に因んで「瀧泉寺」とした。 東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、当寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明である。その後貞観2年(860年)、清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を「泰叡山」とした。 元和元年(1615年)、本堂が火災で焼失した。寛永7年(1630年)、寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海の弟子・生順が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、寛永11年(1634年)、53棟におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿(めぐろ ごてん)」と称されるほど華麗を極めた。 徳川家光がなぜ瀧泉寺を篤く庇護したか、その原因となる話が伝わっている。家光が目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方不明になってしまった。そのとき、目黒不動尊御宝前に祈願したところ、忽ち鷹が本堂前の「鷹居の松」に飛び帰ってきたという。この霊験を目の当りにした家光は、瀧泉寺を篤く尊信したという。 文化9年(1812年)、「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」が行われた(他は、湯島天満宮と谷中感応寺。)。富くじ興行は天保13年(1842年)天保の改革により中止となった。寺名の由来となった、境内の独鈷の滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。 江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、『江戸名所図会』にも描かれている。周辺一帯は景色を眺めながら諸寺に参詣できる一大観光地であったこともあり、当寺の門前はいくつもの店で賑わった。現在の下目黒と上大崎にまたがる行人坂から当寺の門前までは、料理屋や土産物屋がぎっしりと並んでいた。落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台とされる。 江戸時代には大いに栄え、門前町が発達した。門前町の名物として、当時目黒の名産品であった筍(江戸時代後期に薩摩藩より移植したものが商品作物として普及した)を使った筍飯/たけのこ飯(たけのこめし)と棒状に伸ばした白玉飴(練飴の一種)を包丁でトントン切っていく「目黒飴」が人気であった。また、細い竹にしんこ餅を付けた「餅花(もちばな)」というものや、粟餅などもあったという。『江戸名所図会』にはこの目黒飴屋の風景が載っていて、図会に載っている絵では従業員が10人近くみられる大店であったことがうかがえる。 Wikipediaより 目黒の名の由来となった目黒不動尊へ参拝です。目黒は江戸時代、地理上は江戸市外であったにもかかわらず、将軍のお鷹場や不動尊があったがために幕府によって市中扱いを受けていた特殊な地域です。落語の「目黒のサンマ」の小噺でもよく知られていますね(この噺にも将軍がでてきます)。そんな目黒のランドマークと言えば、今も昔も目黒不動尊。 その目黒不動尊に行く前に、ちょっと気になるものが・・・ 左は、お稲荷さんです。五穀豊穣、商売繫盛の神様ですね。幟と赤い鳥居があるので、すぐわかりますね。よくお寺の一角にも建っていますが、目黒不動尊にもあるようです。 その隣には、「比翼塚」と書かれた看板が。 比翼塚はこんな感じで、複数の石碑が林立しています。看板の説明によると白井権八という男が処刑され、恋仲にあった遊女の小柴が後追って心中したとのこと。後にこの話が歌舞伎の演目となったということで、ここに石碑が建てられたのだそう。曾根崎心中なんかもそうだけど、江戸時代に歌舞伎や人形浄瑠璃なんかで心中ものが流行ったんですよね。それで近松門左衛門が売れっ子になったという。 そんな比翼塚の目の前には・・・ ドーン!っと、目黒不動尊の仁王門が建っています。色鮮やかで、なかなか立派な楼門です。近年、塗り直したのかもしれませんね。それに引き替え、中の仁王像は原色そのまま。そこは塗らないのかい!? 仁王門をくぐると、右に塀で囲われた一角が。 別のお寺に見えますがこちらも目黒不動尊の一部で、この奥に御朱印や御守などをいただける寺務所があります。 これこそが瀧泉寺の名の由来で、瀧となって水が湧き出している泉がある寺ということでつけられました。それだけに目黒不動尊にとって最も大切な場所です。 石垣の上にはやたら石仏が並んでいます。この中にも不動明王がいそうです。 そんな池のほとりには、二つのお堂があります。手前の茶色いお堂が垢離堂、奥の高台に建つ赤いお堂は前不動堂です。 で、こちらは垢離堂です。山伏や修験者がけがれを落とし、身を清めるために水浴びをするためのお堂だそうです。だから垢を離別させるお堂で垢離堂といい、わざわざこの池の隣に建てられているんですね。といっても、今は誰もつかっていないでしょうが。 そしてこちらが前不動堂。このように小綺麗になっていますが意外と江戸時代の築で、東京都指定有形文化財だそう。恐らくですが、目黒不動を安置している本堂の前にももう一つ不動像を祭っているお堂があるから、「前」不動堂というのではないかと。 このようにお堂のようになっていますが、室内は地中に埋まっています。この薄暗い穴の中に真っ黒な役行者(えんのぎょうじゃ)の座像があります。役行者は本名を役小角(えんのおづぬ)といい、飛鳥時代に修験道を創始した人物です。 で、こちらが男坂です。段丘上にある本堂に向かって真っすぐ伸びているため、石段が急です。こういう崖線沿いは地層の露頭が多いため、水が湧き出しているところが多いです。この男坂の脇以外にも何ヵ所が湧水があるらしく、非常に水の豊かな地であることがうかがえます。 そんな石段を登り切ったところにもたくさんの仏像があるのですが、その中で本堂の裏側にある大日如来像をご紹介します。こちらは未年・申年の守り本尊です。全ての仏の根幹とされているのが大日如来だそうで、仏教において最も重要な存在です。物事の本質を見抜く力があるとのことです。 ちなみに、ここの飛び地に墓地があるのですが、そこには江戸時代にサツマイモの研究で有名になった甘藷先生こと青木昆陽の墓があります。その関係でこの本堂の前には、近くの保育園の園児が植えた芋畑があります。秋になったらちびっ子たちが芋掘りするのかな? ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ 上に戻る |
