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福徳神社 [戻る]十代目松本幸四郎さん出演のCMのロケ地 【住所】 東京都千代田区神田須田町2-25-1 【御祭神】倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉(稲荷神) 【合祀神】天穂日命〈あめのほひのみこと〉 少名彦名命〈すくなひこなのみこと〉 事代主命〈ことしろぬしのみこと〉 三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉 太田道灌〈おおたどうかん〉 弁財天〈べんざいてん〉 徳川家康〈とくがわいえやす〉 【創建】 貞観年間(清和天皇・860~876年) 【社務所】あり 【ご神職】いる 【授与品】お守り、御朱印、おみくじなど 【駐車場】なし 【HP】 https://mebuki.jp/ 【ご由緒】当社の創祀された時は明らかではありませんが、当社に伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・860~876年)には既に鎮座していたようです。 武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。 その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。 後の明暦3年酉年(1657)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。 当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。 そもそも当社は、元来武将の信仰があつく、源義家朝臣(みなもとのよしいえあそん・1039~1106年)が深く崇敬されていたことが記されていた、と伝わっています。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。 天正18年(1590)8月1日に入府した徳川家康公は、同じ8月に初めて参詣され、その後参詣は数度に及びました。 (芽吹神社 御由緒) さらに、二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月八日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛されました。この時、当社古例の椚の皮付きの鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、当社の別名を「芽吹神社」とされました。 元和五年(1619)2月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに「社地縄張を三百三十坪」と定められました。 今回紹介するのは、三井不動産による再開発で生まれ変わった、福徳神社です。十代目松本幸四郎さん出演による、三井不動産のCMのロケ地にもなってましたね。 新築の超高層ビルに囲まれたオフィス街の中の神社です。道路もきれいにタイル敷きになっていて、現代的な風景の中に純和風のものがあると、かなり浮いて見えます。 境内に入りました。色味のない建物の中で、朱塗りの鳥居がよく映えます。しかも、できたてなのでツルツルピカピカ。 奥に見える森は、再開発に際して人工的に作られた福徳の森です。水の流れるビオトープがあり、都会のオアシスといった感じです。神社ともつながっていて、自由に出入りできます。この神社には芽吹神社の異名もあり、植物は欠かせない存在のため、作ったのかも。 こんな細かいところもこだわりますね。神社の雰囲気を守るためですかね。面白い! それはともかく、鳥居をくぐり左に曲がると、右手に手水舎があります。こちらも新しくしたようです。 その奥の石の柵が途切れているところがありますが、ここが福徳の森の入り口の一つです。ここから遊歩道が伸びていて、その先の広場まで続いています。 それほど大きくはない社殿ですね。タイプは権現造りでしょうか。周りが近未来的なビルばかりですので、社殿も現代的にデザイナーズ仕様にするのかと思いきや、予想に反し思いっきり純和風ときた。まあ、神社といえばこうですよね。 こちらは御朱印です。御朱印帳への直書きはしてくれませんでした。なので、書置きを頂戴しました。デザインは、いたってシンプル。町名や芽吹神社の別名の記載もありません。 それにしても福にして徳とは、なんと縁起の良い名でしょう。元々は稲荷神社なので、商売繁盛、五穀豊穣の御利益があります。芽吹神社の別名から、何かを始めたり、始めたことが上手くいくという御利益もあります。 ![]() 福徳神社近くのホテル ついでに行きたい近くの寺社 最近の注目記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ 上に戻る |