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恵林寺 [戻る]【住所】 山梨県甲州市塩山小屋敷2280 【宗派】 臨済宗妙心寺派 【本尊】 釈迦如来 【創建】 元徳2年(1330年) 【開基】 夢窓疎石 【最寄駅】JR中央本線 塩山駅からバス・タクシー 【HP】 https://erinji.jp/ 【概要】 恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹である。 元徳2年(1330)に、甲斐牧ノ庄(かいまきのしょう)の地頭職(じとうしょく:領主)をつとめていた二階堂出羽守貞藤(にかいどうでわのかみさだふじ:道号は道蘊 どううん)が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建しました。 武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)には、信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めました。 天正4年(1576)4月、遺言通り三年間の秘喪の後、武田勝頼は快川国師の導師のもと、父信玄の盛大な葬儀を厳修しました。 しかし天正10年(1582)3月、勝頼は時運を味方につけることができず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡しました。同4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれました。 同6月3日、「本能寺の変」によって信長が斃れて後、徳川家康の手により復興され、また徳川五代将軍綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢美濃守吉保の庇護で寺運は発展、柳沢吉保嫡男の吉里の代に柳沢家は奈良大和郡山に転封となるも、吉保夫妻は恵林寺を菩提寺として霊廟をもうけました。 庭園は鎌倉時代、夢窓国師の作庭で、国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれています。 HPより 今回参拝するのは、山梨県内有数の規模と知名度を誇る臨済宗寺院の恵林寺(えりんじ)です。戦国最強とも言われた大名武田信玄と切っても切れない関係にあることでも知られています。 そんな恵林寺の最寄り駅はJR中央本線の塩山(えんざん)駅で、この駅名は武田信玄が塩を探したことから名づけられた塩ノ山から旧塩山市の市名が生まれ、そこから採用されたものです。さすがは山梨県、こんなところにも武田信玄が絡むとは・・・。 そんな塩山駅の北口から出ると、早速いましたよ。あのお方が。 武田信玄! まあ、そうなるよね。塩山で銅像作ると言ったら、間違いなく信玄になりますよ。 ただですね、この銅像恐らく昔の日本史の教科書に載っていた肖像画をモデルに作っていると思うのですが、あの肖像画は近年能登畠山氏のものである可能性が高いとのことで、別人と考えられているんですね。本当の信玄像はもっと長顔で太ってはいなかったそうで、今はそちらが採用されています。 そんなウンチクはともかく、恵林寺に行きたいのですが、駅からは大分遠いのでタクシーに乗りました。 そして、参道前の駐車場で降ろしてもらいました。そしたらもういきなり石碑が建っていました。 扁額には、雑華世界と書かれているようです。意味は、「この先は悟りを開くための場である」とのこと。つまり、この門を境に手前が世俗、奥が聖域であることを示しています。 左脇に文化庁の看板が立っていることから、重要文化財に指定されているみたいです。見た目の割に、意外と古いのですね。 しかも、屋根の棟のところに小さいですが武田菱の家紋が見えます。ここでも武田をアピールしていますね。 そんな四脚門をくぐると、辺りには広大な池泉式庭園が広がっていました。 禅宗寺院ということで、屋根の反りがどことなく大きいようにも見えます。 そして、ここの棟にもお決まりの武田菱。しかも、金色。武田信玄の霊廟だけではなく、信玄が剃髪をしたお寺でもあるので、どんなところにも武田の痕跡があるのは仕方ないですよね。 さらに、この門を有名にしているものがあります。それは、こちら。 この看板です。「心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火もまた自(おの)ずと涼(すず)し」と、漢文体で書かれています。心と頭脳から迷いや動揺を消し去れば、火ですらも自然と涼しく感じることができるという意味です。なんのこっちゃとも思いますが、これは武田信玄によって招かれて住職となった快川禅師が弟子に向かって放った言葉です。 信玄亡き後家督を継いだ武田勝頼は、長篠の合戦以降敗戦を続け織田勢に攻め込まれていました。その際に恵林寺にも織田勢が押しかけ、要求に応じなかったために焼き払われてしまったのです。弟子たちは業火の中で右往左往し、それを見た快川禅師が落ち着かせるために言い放ったと伝わっています。 そんないわく付きの門を過ぎると、いよいよお堂の建ち並ぶエリアに入っていきます。 梵鐘は小さいですが、櫓みたいな楼閣になっていて特徴的な建物です。 その背後にある平屋の建物は、信玄公宝物館です。ここは武田信玄に関係する遺物や資料を展示している博物館です。一番の見どころは、紺の地に金字で「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」と兵法書孫子の一節が書かれた幟旗です。いわゆる風林火山の旗で、武田信玄が自らの馬印としたことで有名ですね。 これと一緒に「南無諏方南宮法性上下大明神」と書かれた、いわゆる諏訪法性の旗もあります。これは諏訪大社のご利益にあやかろうとしたものです。 他にも武田信玄いえば軍配団扇も有名ですが、現物が保管されています。 まあ、宝物館は写真撮影できないのでこの辺にして、いよいよ恵林寺中核部へ入っていきます。また一つ門をくぐり塀の中に入ると、超巨大な鬼瓦が飾ってありました。 さすがにお寺の鬼瓦となると、デカい!しかも、ここにも漏れなく武田菱が!まあ、そうですよね。武田信玄の庇護を人一倍受けたお寺ですから、そりゃあ武田菱を入れますよ。 さらに庫裏の前には、こんな背の高い木が生えていました。 こちらは昭和25年に甲府で開催した第一回植樹祭の時に、昭和天皇が播いたものを植樹したヒノキだそうです。70年以上経って、かなり大きくなりました。 庫裏の隣には、すぐ方丈があります。その南側に広がるのが、方丈庭園です。恵林寺は臨済宗なのですが、これは禅宗の一派なので禅宗よろしく枯山水庭園になっています。このシンプルイズベストな感じがたまらないです。 一応こんな感じですが、どうもよく見ると墓石が新しいです。どうやら恵林寺のは供養塔との説が有力らしく、甲府の市街地の中にあるのが本当のお墓の様です。 さらに、もう一人有名な歴史上の人物のお墓がありました。それがこちらです。 甲府藩主柳沢吉保のお墓です。こっちのお墓はどうやら本物らしく、遺骨がちゃんと納められているとのこと。柳沢吉保といえば、徳川綱吉の下で幕政を取り仕切った人物です。しかも吉保は生前、武田の支流を名乗っていたそうで、柳沢氏も武田菱を用いていました。 そして、その柳沢吉保の像も位牌と共に飾ってありました。 ついでに行きたい近くの寺社 注目の記事 さらに運気アップ!開運LINEコンテンツ |