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本願寺山科別院
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【住所】 京都府京都市山科区東野狐藪町2

【宗派】 浄土真宗本願寺派

【本尊】 阿弥陀如来

【創建】 享保17年(1732年)

【開山】 住如

【御朱印】御朱印は無し(ただし、記念スタンプはある)

【最寄駅】京都市営地下鉄東西線 東野駅

【HP】  https://www.yamashinabetsuin.jp/

【概要】
 本願寺中興の祖蓮如上人ゆかりの地が、この山科別院であります。
 本願寺第8代蓮如上人の時、1465(寛正6)年、京都東山・大谷本願寺が比叡山の僧徒により破却され、ご開山親鸞聖人のご真影は大津・近松御坊にご避難されていました。上人64歳の時、1478(文明10)年、近江・金森道西の願いにより、山科郷野村西中路に坊舎を建てられました。これが、山科本願寺のはじまりです。1480(文明12)年8月に御影堂が新築され、同年11月には大津よりご真影をお移しになり、翌1481(文明13)年6月には本尊を阿弥陀堂に安置しました。これが松林山 山科本願寺です。 山科本願寺は一説によれば、御影堂・阿弥陀堂を中心に43万坪ともいわれる広大な寺領を有し、「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国の如し」と称されました。その後、蓮如上人のご息男第9代実如上人、さらに第10代証如上人と続いて伽藍が整備されました。
 ところが1532(天文元)年8月、日蓮宗徒、比叡山僧徒が、六角定頼の兵とともに本願寺を襲撃、やがて御堂に火が放たれ、華麗を極めた山科本願寺もことごとく灰燼に帰し、本願寺は蓮如上人が造営されていた大坂の坊舎(現在の大阪城付近)に移り、53年間にわたって隆盛を極めた山科本願寺は消滅したのでありました。 その後、蓮如上人をお慕いする全国のご門徒の方々は、山科に残された蓮如上人の御廟にお参りしても、管理を行うお寺もなければ、お念仏をひろめる道場もないことに心を痛め、しばしばご本山に寺院造営を懇請されましたが、叶うことの無いまま、山科本願寺焼失から200年が経過しました。
 いよいよ時熟し、1732(享保17)年、第15代住如上人により、北山別院の旧堂をご廟所の東側に移築、当初、聖水山舞楽寺とされました。さらに第17代法如上人の時代になり、この御堂が手狭であるため1774(安永3)年3月、現在の本堂が建立され、続いて1781(天明元)年蓮如上人300回遠忌にあたって、鐘楼・太鼓楼、茶所等が増築されました。 また、中宗堂は1823(文政6)年蓮如堂として本堂の南に建立されました。中宗堂にご安置されている蓮如上人御木像は、永くご本山に安置されていました。舞楽寺仏殿落慶の後、この御木像をご本山よりお移しして報恩講が修行され、これを前例として、山科別院中宗会・報恩講には、この御木像をお迎えするのが通例となっていましたが、1884(明治17)年4月、第21代明如上人により、山科の別院中宗堂を本山中宗堂代と定められ、これよりこの御木像は永く山科の地に安置されることとなりました。
 1998(平成10)年、蓮如上人500回遠忌をお迎えする記念事業として、老朽化した本堂・御殿の修復、書院の新築が行われました。また2011(平成23)年、親鸞聖人750回大遠忌をお迎えする記念事業として、旧茶所跡に多目的会館が新築されました。

HPより


 こちらのお寺は、西本願寺の山科の拠点にあたる本願寺山科別院です。ここは山科盆地のほぼ真ん中で、山科川と四ノ宮川に挟まれたところに建っています。

 そもそも山科へは来る予定はなく、たまたま訪れました。というのも、前日に私がタクシーの中でスマホを落としまして(ホント、よくスマホ落とすんですよ)、それを受け取りに山科の営業所へ出向いたからです😅

 その際に父が、せっかくタクシー会社へ来たから地の利があるだろうと、この辺りに何か神社仏閣はないかと尋ねたところ、山科別院があると言うのでならばと参拝したわけです。

 というわけで、早速駐車場のほうから境内へ入りました。


 左が太鼓楼で、右が北門です。この右のところで塀が途切れているので、スルーパスになっています。

 太鼓楼については、蓮如上人300回遠忌に際して天明元年(1781年)に建立されたものだそうですが、最近改築を行たようで、入口の車寄せが撤去されたのと、一層部分のサッシュ枠が板壁に模様替えされていて、さらに全体的に白漆喰の壁の塗り替えが行われました。


 なので本当はリノベーションなのですが、全体的に新築されたような見栄えに変わってしまっています。というか、元の姿に戻したのかもしれませんが。

 ところで、このお城の隅櫓のような出で立ちの太鼓楼(寺院によっては鼓楼ともいう)は、浄土真宗特有の建築物です。この二階に太鼓が収められていて、この高いところから鳴らして遠くに合図を送っていたわけです。

 そしてその先へ進むと石畳の参道に行きつきました。その先に見えるのが、メインゲートの山門です。


 本来は蓮如上人の御廟のほうから来て、四ノ宮川に架かる橋を渡ってここに来ます。周囲に見える木々は、桜の木です。すでに花が散っていて、葉桜へと変貌していました。

 その石畳が伸びている先が、書院です。


 写真には写ってないですが、この右手前にある建物にお坊さんや事務員さんが常駐している寺務所・研修会館があります。浄土真宗の場合、宗派の方針としてどこのお寺でも基本的に御朱印の配布や直書きは取り扱っておりませんが、山科別院では参拝記念スタンプを押してもらえます。

 そこから本堂のほうへ見やると、このような景色になっています。


 本堂の前に大きな二本の銀杏の木が生えているのがわかります。左に見切れているのは、松の木です。右の小さな小屋は・・・よくわかりません😅

 で、これが本堂です。




 安永3年(1774年)3月に建てられたものが現存しているそうで、非常に大きくて立派なものです。

 実はここ本願寺山科別院の所在地周辺は元々は山科本願寺だった場所で、戦国時代にはお寺の外周とそれを囲む二つの地内町の外周に土塁を回らして郭を作り、さらに東に南殿と呼ばれる飛び地もありこちらも土塁で囲って要塞化していました。それは正に平城のようなありようで、一向一揆の拠点となっていました。

 しかし、山科本願寺の戦いで法華宗徒と六角定頼に攻められ全焼し、空き地になっていたところに再び浄土真宗のお寺として今の別院が建てられました。今でも土塁が一部残っていて、国の史跡に指定されています。


 そしてこちらが本堂の南隣に建つ文政6年(1823年)築の中宗堂です。以前は蓮如堂といっていたそうですが、西本願寺第21世明如(大谷光尊)によって改名し、今に至ります。中には蓮如上人の木像が納められているそうです。

 では御朱印といきたいところですが、先ほども言った通り書いてくれないということで、代わりにスタンプを押していただきました。


 対面に位置したところにある、蓮如上人の御廟所の唐門を描いたスタンプです。何もないのは淋しいので、スタンプ押してくれるだけでもありがたいです。



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