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増上寺 🕶
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【札所】 江戸三十三観音札所 第21番

【住所】 東京都港区芝公園4丁目7番35号

【宗派】 浄土宗

【本尊】 阿弥陀如来

【創建】 明徳4年(1393年)

【開山】 聖聡

【最寄駅】都営地下鉄三田線 御成門駅・芝公園駅
     都営地下鉄浅草線・大江戸線 大門駅
     JR京浜東北線・山手線・東京モノレール 浜松町駅

【HP】  https://www.zojoji.or.jp/

【概要】
増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。

9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(東京市麹町区を経て現・千代田区麹町および紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。

室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第8祖酉誉聖聡ゆうよしょうそうの時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が実質上の開山と言える。

聖聡は応永3年(1396年)に小石川(東京市小石川区を経て現・文京区)に草庵を立てて、師匠である了誉聖冏りょうよしょうげいを招いた。これが後の伝通院になったという。

開基聖聡の弟子には、松平氏宗家3代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏ぞんげいや、松平氏宗家4代松平親忠開基の大恩寺開山了暁りょうぎょう慶善がいた。また松平親忠の第4子で、浄土宗総本山知恩院25世の超誉存牛や、徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底せいよぐていはいずれも聖聡の孫弟子であり、中世から松平氏や徳川氏とのつながりが深かった。

中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、酉誉聖聡を継いで増上寺二世となった聡誉酉仰ゆうこうは甥であったと伝えられている。酉誉聖聡・聡誉酉仰共に千葉氏の出身とされていることから、千葉氏の庇護を受け、後に地元の領主であった江戸氏や太田氏の庇護を受けたという。なお、前述の釋誉存冏や同門の楽誉聡林、聡誉酉仰の弟子である讃誉空山も千葉氏の出身と伝えられており、初期増上寺と千葉氏の間に密接な関係がうかがえる。宝徳3年(1451年)には音誉聖観が三世となるが、間もなく享徳の乱に巻き込まれることになり、康正元年(1455年)には長尾景仲を追討する鎌倉公方足利成氏が増上寺に陣を構え、文明3年(1481年)には戦火で焼失したとされている。その後、隆誉珠阿・天誉了聞・僧誉智雲・親誉周仰・杲誉天啓・道誉貞把が増上寺を継いでいる。彼らは太田氏やその主筋の上杉氏に近く、親誉周仰は世田谷の吉良氏出身であることが知られている。

永禄6年(1563年)、後北条氏の重臣・大道寺政繁の甥で杲誉天啓の門下にあった感誉存貞が十世に就任する。存貞は後北条氏との関係を強める一方で増上寺の再建と綱紀の粛正を図った。その後は、筑後国の中西氏(菊池氏の庶流)出身で、感誉存貞から大長寺を譲られるなど信頼の厚かった門弟の雲誉円也が十一世に就任している。

通説では天正18年(1590年)8月、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、十二世源誉存応と対面したのが徳川家の菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。ただし慶長7年(1602年)頃の江戸を描いたとされる『別本慶長江戸図』には、後の西の丸下、日比谷入江に面する箇所に「僧正殿」との記述があり、これを増上寺とする説がある。この場合、芝の土地を拝領したものの、関ヶ原の戦いの影響で伽藍の完成が遅れたと考えられる。

また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年)6月26日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷沙汰を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。なお、テレビドラマ『水戸黄門・第17部』においては、この一件が水戸光圀の旅立ちのきっかけとして描かれている(光圀の諸国漫遊はフィクション)。

元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。

明治維新直後には、神道国教化政策の下、半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり、大教院神殿が置かれた。参道には、通常は神社に建てられる鳥居が置かれた。のち1874年(明治7年)1月1日、排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。

1923年(大正12年)、関東大震災で大門に大きな被害が生じたため、解体して両国の回向院に移築。 同年10月29日には、朝鮮同胞遭難者追悼大法要も行われた。

太平洋戦争中の空襲、特に1945年(昭和20年)4月の第二次東京大空襲と翌5月の第三次東京大空襲によって徳川家霊廟や五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。また、戦中の短期間、西遊記の三蔵法師で有名な玄奘の遺骨が安置されていたが、埼玉県への疎開が行われ、現在は埼玉県さいたま市岩槻区の慈恩寺にある。遺骨はその後、奈良県奈良市の薬師寺と台湾南投県日月潭の玄奘寺に分骨されている。

東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供している。なお、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」とは、増上寺の旧総門のことを指す。2021年現在の大門は1937年(昭和12年)に東京市が市民の寄付を募って改築したコンクリート造のものである(詳しくは後述)。

2022年(令和4年)7月11日、同年同月8日に奈良県内で銃撃を受け暗殺された第90・96 - 98代内閣総理大臣安倍晋三の告別式が執り行われた。

同年10月、解脱門の楼上の夜間公開を実施。これは建立以降初めてのことである。

2025年(令和7年)7月、ユネスコの「世界の記憶」に、「増上寺が所蔵する三種の仏教聖典叢書」(申請者:浄土宗、増上寺)が新たに登録されることが決定。

Wikipediaより



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